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42年間勤務した会社の「ファン」として、社内外に歴史と魅力を伝えていく

乃村工藝社のクリエイティビティを支えるライブラリアンとして活動してきた石川 敦子。情報データベースの構築や世の中に通じる乃村工藝社の新たな価値をつくることに尽力、会社へのファンづくりを目指し、社の歴史を伝える‟語りべ”としても活躍中。入社以来一貫して持ち続けた未来を見据えた仕事への価値観を語ります。

 

アルバイトから社員へ。「会社らしくない会社」が魅力的だった

乃村工藝社 大阪事業所の人事総務本部ナレッジサポートルームに所属。情報資料室にて42年間勤務し、2023年3月に退社した石川。今は外部協力スタッフという立場で、引き続き博覧会に関する資料の寄贈受入れ、再整理、管理などの業務を担っています。

石川  「乃村工藝社との出会いは偶然でした。当時私は大学生で、図書館司書になるための勉強をゼミで専攻していたんです。そんな折に、大学の友人から『司書を目指している人をアルバイトとして探している会社があるから、やってみないか』と声をかけられたのが出会いでした」

任されたのは、床に広げられた7~8,000冊の資料を、空っぽの本棚に納めていく仕事でした。 

石川  「建築やデザイン分野の書籍が大半で、驚いたのを覚えています。ジャンルに偏りがある上に洋書も多かったので、公共図書館で使われている日本十進分類法というカテゴライズでは本をうまく分類できず、室長と相談しながら独自の分類を決めていきました」

冬休みになると、再度アルバイトのオファーが。その時、同室の女性社員から「もし就職先が決まっていなければ乃村工藝社に来ない?」と声をかけられたことが、石川の就職のきっかけとなりました。

石川 「会社の雰囲気や社員の方々の人柄に惹かれていたこともあり、そのまま入社を決めました。でも、当時の私は乃村工藝社という会社についてほとんど知らなかったんです。1970年にあった日本万国博覧会(大阪万博)を12歳で経験し、圧倒的な感動を受けていたのに、まさか乃村工藝社がそのパビリオン展示を手がけていたとは……。内装やデザインなどの業務内容にも、まったく知識がありませんでした」

とはいえ、業務内容を深く理解していなくとも、乃村工藝社に漠然とした魅力を感じていた、とも。

石川  「思い返せば、当時の乃村工藝社は、良い意味で‟会社らしくない会社”でした。とても会社員とは思えないような雰囲気の人たちが、熱意をもって働いていて、こんな世界があったのかと衝撃を受けました。大学を出たばかりの若い自分であっても、フラットに話を聞いてもらえる環境は、当時にしてはかなりめずらしかったのではないかと思います。

勉強しながら何とか仕事を覚えていく日々の中で、私の意識にスイッチを入れてもらえる出来事がありました。ある時、情報資料室に入ってきた社員が『ポンピドゥー・センターが載っている本はどこにある?』って、一言おっしゃられたんですね。その時、私の隣にいた大先輩が、何列目の棚の何段目に入っている本の、大体真ん中ぐらいのページに載っている、と即答したんですよ。あの時、自分もこういうふうになりたい、ならないといけないと強く思いましたね」

 

オリジナルコンテンツ「博覧会資料COLLECTION」を制作

▲  2023年1月に開設された「EXPO GALLERY」(※予約制)

業務の中で一番大事な役割は「レファレンス」だという石川。資料室に来る社員から質問を受け、2万冊の書籍の中から最適な資料を案内してきました。同時に、大阪事業所内での成果物を写した竣工写真を収集。大阪事業所内の誰もが便利に閲覧できるよう、環境を整えました。

石井  「そんなある日、竣工写真の収集について、チーフデザイナーから『君の仕事は中途半端だ』と言われたんです。いわく、『大阪事業所の中の仕事は、担当者に直接聞けば分かる。それよりも東京本社が何をしているか、支店が何をしているか、それを知りたいんだ』と。ニーズに気づかされて、東京本社や各支店との情報交換に着手しました」 

しばらくしてインターネットを使える時代が来ると、竣工写真をデジタルで管理し、社内ネット回線で公開すると同時に石川は、これまでの書籍台帳をデータベース化し、検索しやすい仕組みを整備していきました。次第に、「大阪の石川さんにお問い合わせすれば、答えが返ってくる」と言ってもらえるようになってきたと言います。

石川  「けれども、私たちみたいな間接部門、つまり直接利益を生まない部門は、必要性を理解してもらうことが難しいと感じていました。『あの部署はいらないんじゃないか』など否定的に思われない部署になるためにはどうしたらいいのかを自分なりに考えるようになりました」 

情報資料室の存在価値を高めたい、と考えた末に石川がたどり着いたのは、乃村工藝社にしかないオリジナルコンテンツをつくろうという決意でした。

石川 「1992年に、当社は100周年の社史『ディスプレイ100年の旅』を出版しました。その社史室が、たまたま大阪事業所の資料室の一部にあったんです。私は、傍らからその制作の様子を見ていました。

100年史出版後、社史の担当者から『外部監修の寺下 勍(てらした つよし)さんという方がいて、実は40年間にわたって日本有数の博覧会資料を集め保管している方なんだ』と教わり『仕事が一段落したら、資料を一度見せてもらいに行きなさい』とも言われました。私は、これだとピンときたんですよ。博覧会の資料は、社業の根幹にも関わるもの。まさしくオリジナルコンテンツとして整えていくべきものだと思って、上司と一緒に資料を見せていただくに至りました」

寺下さんの貴重な資料の数々を目の当たりにし、石川はいたく感激。覚書を交わし、2tトラック2台分の量もあるそのコレクションを博覧会資料として乃村工藝社へと寄贈いただけることが決まりました。これが当社オリジナルのコンテンツ「博覧会資料COLLECTION」のはじまりです。

石川 「コレクションは膨大な量がありましたから、整理をしていくのは本当に大変でした。資料の目録は寺下さんの頭の中だけにあったので、まずは全容を理解するところからスタート。公式記録、写真帳、絵葉書にメダル。分類していくにも、全ての資料を一度確認してからでないと、そもそも、カテゴリーを決められません。そこで、全てを確認してからデータベースをつくりはじめました。完成した時に初めて分かったのは、全部で1万点弱もあったということでした。

寄贈いただく際に寺下さんから出された唯一の条件は、資料をしっかり世の中に役立ててね、ということ。だからこそ、利便性の高いデータベースとして管理し、社内外からアクセスできるかたちで公開しようと心に決めていました。

最終的には寺下さんから『自分ではこれはできなかった。あなたのところへ寄贈してよかった』とのありがたいお言葉をいただくことができました」

(参考:ノムログ「バトンタッチしうるモノ -国内博・万博と博覧会資料COLLECTION-
 

コレクションを散逸させず、後世にしっかりバトンタッチしていきたい


博覧会資料を整備したことは、石川のキャリアにとって、とても大きいことでした。

石川  「『博覧会資料COLLECTION』を公開したところ、外部からのお問い合わせがどんどん増えたんです。国内外の研究者からは資料を見たいという問い合わせが来ますし、メディアからは画像提供依頼の連絡を受けるようになりました。情報資料室は、いち企業内図書室としての機能を超え、社外窓口のひとつのように変化し、私自身、関わる仕事が大きくスケールアップした感覚があったことを覚えています」

寺下さんが40年間にわたって集めたコレクションの数々。世の中に役立て続けるというミッションを胸に、石川は、これからもひたむきに仕事に取り組みます。

石川  「2025年の万博メンバーの1人に、印象的な言葉をもらいました。それは『未来は変えられるけれど、過去は変えられない。博覧会資料をこれだけちゃんと蓄積したという過去は、もう変わることはないんだ』と。仮に、同業他社が似たようなことをしたいと思ってもゼロから始めるしかない中、当社にはすでに20年ほどの蓄積があるのです。大きな強みですよね。

今の社員の方、特に若い人たちは、博覧会や万博のことをご存知ない方もたくさんいると思います。まずはこの資料を見て、自分が所属する乃村工藝社という会社のことをもっと知ってほしい。そして、会社のことを自慢に思ってもらえたらうれしいです。コレクションを散逸させず、後世にしっかりバトンタッチしていきたいと思っています」 

 

勤続42年。交わした言葉や人とのつながりが、大事な宝物

▲ イベント学会研究大会での発表(2010年)


社外の人と接する機会が増えてきたことで、石川は、学芸員資格を取ろうと決意。50歳を超えていたタイミングで、資格を取得しました。

2012年、乃村工藝社120周年の時には社史編纂部に入り、さらに会社の歴史を深く知ることに。以降、人事・総務部門から依頼を受け、中途採用の社員や外部役員などに定期的に乃村工藝社の歴史を語っています。目指すのは「乃村工藝社のファンづくり」です。

石川  「42年間、乃村工藝社と関わってきました。そして、いつの間にか私自身が乃村工藝社のファンになっていました。創業者の乃村 泰資さんは、無理難題を言われても決して『できません』とは言わない人間でした。『こういうかたちでなら実現できそう』と、常に代案を出していたと言います。私が入社したころの4代目社長・蟻田 栄一さんも、経営者というよりデザイナーに近いような、すごくクリエイティブな方だったように思うのです。そういった、好奇心旺盛な歴代社長たちの人柄を、今も魅力的に感じています。

そんな社長の人間性が、会社全体にも広がっていると思います。今いる社員たちの方々は、どんなに難しい状況も果敢に切り抜け、絶対にやりきる人ばかり。みんなが『乃村工藝社レベル』の仕事を追求しているのを感じます。
 

私は資料室に長く務め、数多くの人とお会いしてきました。交わした言葉やそのつながりは、人生の宝物です。『ありがとう』『助かった』などの言葉は何よりの励ましになりました。 万博研究会に参加したのを機に、2万字にも及ぶ論文執筆依頼に挑戦したのも、私にとっては予想以上の展開でした。ありがたい限りです。
 

アルバイトとして入った当初に比べて、乃村工藝社はずいぶん会社らしい会社になりました。でも、一人ひとりにすごく個性があり、それが尊重されているところはずっと変わりません。これからも乃村工藝社の1ファンとして、誇りを胸に働いてまいります」

振り返ってみればひょんな縁で乃村工藝社に入った石川。目の前の課題に誠心誠意取り組んできた今、人生が鮮やかに彩られてきたのを感じています。

※ 記載内容は2023年12月時点のものです

石川 敦子(いしかわ あつこ)
 

1970年日本万国博覧会(大阪万博)を12歳で経験、圧倒的な感動を受ける。大阪万博のパビリオン展示を手掛けた会社とは知らず入社。42年間一貫して資料整理とその利活用に関わる。中間地点となる2001年からはオリジナルコンテンツである博覧会資料の受入れから公開・運営にも関わり現在も外注スタッフとして継続中。

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