NOMURA

博覧会資料COLLECTION

日本博覧会略史

日本の博覧会のはじまり

京都博覧会

京都博覧会

第1回内国勧業博覧会

第1回内国勧業博覧会

第4回内国勧業博覧会

第4回内国勧業博覧会

第5回内国勧業博覧会

第5回内国勧業博覧会

世界各国では近代技術の開発と都市の活性化のために幾多の博覧会が開かれてきた。 日本は1867年(慶応3年)のパリ万国博覧会にはじめて参加したが、時は政情不安な幕末で、幕府と薩摩藩が国の代表を争うという変則的な参加であった。 そののち1873年(明治6年)のウィーン万国博覧会には、政府として初めて正式に参加、生産技術や経済制度などを導入し、同時に日本の海外への紹介を通じて、産業発展に多大の影響をもたらした。 わが国でも1751年(宝暦元年)ごろから動植物や鉱物などの天産物を展示した「本草会」とか「薬品会」、または「物産会」と言って博覧会の原型が開かれていた。
海外の万国博覧会参加を契機に、日本でも博覧会が開かれることになるが、江戸時代の物産会などの土壌が培われていたから、博覧会の導入も容易に受け入れられたものといえる。
明治維新で東京遷都となつた京都は一挙に沈滞、その活性化対策として民間人が主催して開かれたのが、1871年(明治4年)の「京都博覧会」で、これが日本で初めての博覧会であった。これによって国内各地で小博覧会が相次いで開催されるようになった。 殖産興業を標榜する明治政府も1877年(明治10年)東京・上野公園で第1回内国勧業博覧会を開き、以後の博覧会の原型となった。
この内国勧業博覧会は明治14年に第2回、同23年に第3回と上野公園で開催され、第4回は同28年京都へ移され、第5回は同36年に大阪・天王寺で開催された。
このときは将来の万国博覧会の布石として、初めて海外の出展・参加を招請し、内国博というより、さながら万国博覧会の観を呈し、“明治のミニ万国博”といわれた。
この時期は日本産業の転換期であり、規模は違うが欧米の博覧会と同列の産業博覧会であった。

明治から大正へ・博覧会は時代とともに

東京大正博覧会

東京大正博覧会

平和記念東京博覧会

平和記念東京博覧会

明治時代は欧米諸国と肩を並べるため、内では殖産興業・富国強兵を図りながら、日清日露の戦役に勝利を果たし、外からは西洋文明を吸収しつつ、“一等国”となり、“帝国臣民”としての誇りを持った時代であった。
したがって博覧会も産業中心であったことはいうまでもない。大正時代は、明治から昭和への“時代の架け橋”といわれたが、“帝国臣民”から“日本国民”になった開放感から“大正デモクラシー”が起こった。
この時代も多くの博覧会が開かれたが、全体に明治の産業博ほどの明確な方針が示されなかった。例えば1914年(大正3年)の東京大正博覧会や、1922年(大正11年)の平和記念東京博覧会のように、自由、平和が協調され産業博色が薄れ、文化性や娯楽性が盛り込まれるようになった。

激動の昭和戦前から戦後の博覧会へ

大礼記念国産振興東京博覧会

大礼記念国産振興東京博覧会

アメリカ博覧会

アメリカ博覧会

日本万国博覧会

日本万国博覧会

不況からはじまった昭和は、金融恐慌、生活難と暗い始まりであったが、1928年(昭和3年)、天皇ご即位奉祝を記念する博覧会は全国各地で開催され“博覧会ブーム”を巻き起こした。
しかし、1931年(昭和6年)に満州事変が勃発、1941年(昭和16年)、遂に太平洋戦争へと突入、やがて戦局は激化、博覧会も軍部による軍事啓蒙に利用されて、終戦ギリギリまの昭和18年まで開かれた。
明治以来の悲願であった日本万国博覧会も、準備を完了しながら1940年(昭和15年)の段階で、“幻の万国博”となってしまった。
敗戦の虚脱状態からの戦後は、物資の欠乏で衣食住すべてに混乱を起こし、一時は復興の兆しもあまり見られなかったが、1951年(昭和26年)の講和条約締結を機に、漸く世情も落ち着き出し、生活も安定化に進み、博覧会も講和、復興、平和を冠した博覧会が開かれるようになった。
そしてアメリカ化が進展し、マスコミの発達、更に1955年(昭和30年)後半からの高度経済成長期を迎え、博覧会も珍しいものや新しい技術を見せるだけでは人々は満足しなくなり、会場全体の演出や展示に工夫が凝らされ、ショー的な要素が歓迎されるようになった。
海外でも第2次大戦をはさむ長い空白期間ののち、1958年(昭和33年)ベルギーでブリュッセル万国博覧会が、戦後はじめて開かれ映像が登場し、1964年(昭和39年)~1965(昭和40年)のニューヨーク世界博覧会では新型の映像も現れ、1967年(昭和42年)のモントリオール万国博覧会で映像展示が人気を集めた。そして、1970年(昭和45年)の日本万国博覧会でも映像が展示の主流として受け継がれた。
以後、1975年(昭和50年)の沖縄国際海洋博覧会を経て、1981年(昭和56年)地方博としては国際博級の神戸ポートアイランド博(ポートピア’81)が開かれ、地方博のイメージを一新し、その後の地方博のモデルとなった。国際博として沖縄国際海洋博のあとを受けた、1985年(昭和60年)の科学技術博覧会(つくば科学万博)でも映像展示がピークに達し、映像万博とも言われた。

大型化傾向と環境重視

2025年日本国際博覧会

2025年日本国際博覧会

国内における博覧会が「地方博」と呼ばれるようになったのは1977年(昭和52年)、国土省の三全総に定住圏構想が打ち出され、「地方の時代」がクローズアップされはじめたころからで、各地方自治体は“地域の活性化”をスローガンに博覧会を頻繁に開くようになり、それを一般的に地方博というようになった。
その地方博がピークに達したのは1980年代後半で、周年記念や開通記念、食と緑、都市緑化事業などの博覧会開催が相次いだ。それと同時に経済力の充実と国際化の進行によって、外国からの参加や国内でも大企業以外の出展も増加し、多催化とともに規模も巨大化した。
例えば1989年(平成元年)の横浜博覧会は、跡地計画の「みなとみらい21」として、高度インテリジェントシティを建設し、企業誘致をスムーズにしたいという側面を持っていたが、地方博の常識を越える400億円という巨費を投じた。同時に地方博の構成要素である3点セットといわれるテーマ館、企業パビリオン、アミューズメントで構成され、パレードその他のイベントなどが加わり、類似化した構成パターンが「マンネリ博」や「金太郎飴博」との批判を浴びるようになり、1992年(平成4年)通産省提唱による“ジャパンエキスポ制度”が実施されることになり、開催頻度や期間、予想入場人員などに制限が加えられるようになった。
過去の例を見ても急速な科学技術の進歩は、往々に人間性軽視の傾向を生み出す。1990年代の博覧会にはテーマを産業・科学から、人間・癒し・自然・環境重視の方向へと変わって行った。 そして、2000年(平成12年)のハノーバー万国博覧会では環境保護重視が協調され、2005年(平成17年)愛知県で開催された日本国際博覧会(愛・地球博)も、環境博としての性格を強く打ち出している。

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