シカゴ万国博覧会
シカゴ市制がしかれて100年、デアポーン要塞建設260年を祝賀するという、アメリカらしいいろいろの記念を冠して、過去一世紀における進歩と将来の発展を展望して、万国博覧会ひさびさに開かれた「マンモス万国博」であった。万国博覧会にはじめて「進歩の一世紀」というテーマを高々と掲げ、科学、技術、機械工学などに展示の重点が置かれた。しかし、必ずしもテーマは会場全体に浸透したものではなかったようである。当時・アメリカでは万国博覧会の後には不況が来るとか、レジャーやマス・コミが発達しているから、もう万国博発会は時代遅れであるとかいわれた。こうした情勢もあって外国の参加も少なかった。敷地はミシガン湖およびイリノイ・セントラル鉄道に隣接するジャクソン公園一帯の、170万平方メートルの大会揚をつくった。会場建築は30年もつ必要はない。博覧会は建築の研究、実験の場であるり、過去の建築にこだわる必要もない。という方針で、ローコストの建築が提唱され、プレハブ式も多く用いられた。なかでも無窓建築が人気を集め、人工照明や空気調節設備も話題となった。また、全建築の色彩についても効果的な色のパターンが決められ、ネオンやイルミネーションも豊富に用いられた。参加47カ国のうち特設館を建てたのは12カ国で、各国の建物が現代建築の粋を集めて建ちならぶなか、日本館は鎌倉および桃山建築の様式をとりいれ、優雅な日本建築の美しさをみせた。ことに純日本式の庭園は、夏の博覧会場に格別の風趣をかもし、観客に涼味を満喫させ好評であった。ここではシカゴ在留支那人が、満州国の特設館が日本部内に建設されたことに対し、抗議があったが、事務局から一蹴される一幕もあった。過去アメリカにおける多くの博覧会は、政府の援助をうけていたが、この博覧会はそれをうけず、従来無料であった展示場使用料を有料にし、入場券を前売りとしたりして、運営の安全を図った。入場者は2300弱と規模の割には少なかったが収支は黒字となった。また、この博覧会によってシカゴに投下された金は3億ドルにおよび景気回復に大きく寄与したし、シカゴはそれまで「ギャングの都」といわれていた汚名もぬぐい去り、文化都市として躍進することなった。●「人工照明、空気調節設備、無窓建築、クレハブ建材」、「GM、フォード、クライスラーなど大規模な企業館登場」
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