ディスプレイ・デザインの歴史

大型レジャー時代の先兵
大衆消費時代の遊園地
 昭和20年代の遊園地での催しは、新聞社が主催する伝統的な菊人形やつつじ人形が中心であった。ひらかた遊園は戦前の伝統を継承し、毎年秋には豪華な見流しによる菊舞台を展開して人気を博し現在に至っている。また谷津遊園の菊人形の段返し、淡輪ではつつじ人形の豪華な見流し、そして多摩川園でも秋の読売菊人形などが注目された。以後、昭和40年代まで谷津、多摩川園などの菊人形に伝統技術が継承されていく。

 昭和30年、わが国初の都市型機械化遊園地として、後楽園ゆうえんちが開園、次いで32年にはみさき公園が、また36年にアメリカでオープンしたディズニーランドの影響を受けた奈良ドリームランドが登場、続いて横浜ドリームランドが誕生した。また都心の百貨店においても屋上を遊園地化するところが増えてくる。これらの遊園地では、施設づくりの分野においても展示業者が参画するようになる。
 その後も、本田技研が乗り物を中心に独自で開発した多摩テックや、天然温泉を備えたナガシマスパーランド、アイススケート場をメインとした富士急ハイランドなどが続々開園し、レジャー大衆化の先鋒としての役割を担った。

 このような遊園地の多様化につれて、伝統的な菊人形に変わり、集客のための新しいプランが求められ出した。遊園地を経営する親会社やイベントを主催する新聞社やテレビ会社は、企画催事に力を注ぎ、展示業者も専門のプランナーを育成してこれに応えた。
 昭和30年代後半から40年代前半には、各遊園地が特設の催場を建てて、集客を図った。これらの催しは、子供を中心としたファミリーに対象を移行させ、テレビやマンガの主人公をあしらったものが多く企画されるようになった。

 昭和40年代に開園した明治村は、明治時代の建物を集めたテーマパークのパイオニアであり、長崎オランダ村へと続くいわばリゾート地の総合文化型遊園地の系譜を形づくっている。さらに40年代の傾向として、伊豆富士見ランドや東京サマーランド、合歓の里などに代表されるように、広大な自然環境を生かした大型のレジャーランドがつくられた点を挙げることができる。高度成長に伴うレジャーブームを背景として、モータリゼーションが進み、遊園地の立地条件も変わり始めた。私鉄沿線の身近な郊外から、さらに広域へと広がりを見せていく。

A 多摩川園「英雄と剣豪絵巻」
 (昭和31年)
B 谷津遊園「第1回京成谷津菊人形」
 (昭和29年)
C みさき公園「のりものフェア」
 (昭和35年)
D 横浜高島屋 屋上プレイランド
 「赤ちゃん動物園」(昭和38年)
E 小田急鵠沼プールガーデンの帆船
(昭和35年)
F 奈良ドリームランド・日本人町
 (昭和36年)
G 那須ロイヤルセンター 世界の童話めぐり・ファンタラマ館(昭和44年)
H 日通富士見ランド全景(昭和41年)

日通富士見ランド全景(昭和41年)H
多摩川園「英雄と剣豪絵巻」(昭和31年)A

谷津遊園「第1回京成谷津菊人形」(昭和29年)B

みさき公園「のりものフェア」(昭和35年)C

横浜高島屋 屋上プレイランド「赤ちゃん動物園」(昭和38年)D

小田急鵠沼プールガーデンの帆船(昭和35年)E

奈良ドリームランド・日本人町(昭和36年)F

那須ロイヤルセンター 世界の童話めぐり・ファンタラマ館(昭和44年)G




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